AKIPIN「生活にある美しさと家族の気配を記録する」
2018.08.25
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1. トントントントントントントントン。
夢の中に規律正しい音が鳴り始め、まぶたの向こうの明るさに導かれて静かに目を開けると、朝日をまとった包丁の手が止まって、いつものように妻が覗き込んできた。
「おはよ。もう7時だぞっ」
慌てて飛び起きて顔を洗って戻ってくると、キッチンから馴染みのない香りと、妻の嬉しげな声が迎えてくれる。「今朝は山梨のプレミアム米でガパオライスだぞっ」Instagramで食卓の写真を日々載せていると、全国からさまざまな食材が送られてくるようになった。米はかれこれ半年ほど自分で買っていない。すべては妻のおかげだ。フードインスパイヤー五段の妻はガパオライスとは別に今日も、ご飯を炊いた鍋と味噌汁と生卵と納豆と、そして私の自宅用カメラをしっかり用意してくれている。
「じゃフタ開けて鍋に入れるからね、せーのっ、ハイ!」
妻の手に合わせすみやかに湯気撮りを済ませた私は、ガパオライスを平らげ、味噌汁を少しすすって席を立った。妻は卵かけご飯を食べながらフードインスパイヤー六段の過去問を解いている。
「行ってくるわ」「がんばるんだぞっ」何年聞いてもかわいらしい言い方だなと思う。私は駐輪場のセグウェイに乗って出発し、貯めてるデータにパパっとキャプションをつけて投稿してから今日の撮影現場へ・・・
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2. ・・・という生活とは全く違う、普通の生活をしている、AKIPINと申します。こんにちは。そしてごめんなさい。 本当はInstagramで物をいただいたことはなく、妻はフードインスパイヤー五段ではなく、写真のための演出は何もしていません。ガパオライスは食べたことがなく、セグウェイ上から投稿しておらず、妻がこんな喋り方だったら絶対いやです。あと、『フードインスパイヤー資格』などありません本当にごめんなさい。
首相よりも社長よりもクリエイターよりもハイパーメディアクリエイターよりも、存在に替えがきかない"みそ汁"はえらい。
ウェブを開けばいろんな写真や情報が入ってくる時代、次のように思っている方も多いのではないでしょうか。
「普通の生活をしてたら写真スポットにもなかなか行けないし、モデルさんとのツテもないから、美しい写真を撮る機会がない。家族もいたらもっと難しい」
当てはまる方にぼくは、大きく息を吸い込んでささやきたい。 「明日の朝ごはんを撮りませんか」と。
「写真スポット」や「モデルさん」ではなくても、「普通の生活をして」「家族もい」るなら、そこに「美しい写真を撮る機会」はふんだんにあると思っています。
説明などなく見ていたい光がある。
妻が置いてくれた、15分後にはいなくなってしまうおでんを大事に撮る。
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3.
以前ぼくは、一人で繁華街へ出かけて景色や通行人を撮って、休日にずーっとパソコンで写真データをいじっていた時期がありました。
でも、どれだけ時間をかけて調節しても、Instagramで見かけるような素敵なストリートフォトに全然ならないし、そもそも撮った時点であまり気に入っていない。
なにげなく撮った家族やごはんの写真は、素直に好きだと思えるのに。
ある日、撮り貯めた家族写真をみんなで見よう!と言って家族でパソコン画面を囲むと、よくわからない場所で知らないおじさんが1歩ずつ遠ざかっていく後ろ姿の連写写真が数十枚と出てきて、妻や娘の姿がぜんぜん現れない。
次の写真を見る右矢印を何回押しても、おじさん、おじさん、おじさんに次ぐおじさん。おじさん、おじさん、おじさんやいなやおじさん。そしておじさん、おじさん、おじさん、妻(おじさんの)・・・。
ぼくは考えました。限りある人生、自分が好きに使える時間の中で、自然に心くすぐられるものは何か。情報とかに流されて、それを見失っていないか。今日、自分が本当に撮りたい景色や人は・・・?そんなふうに考えて見えてきた答えが、ぼくにとっては、普段自然に撮っている『妻のごはん』を中心とした『家族との生活』だったのです。
「お弁当つくるから昼に家で食べよう」と妻が提案してくれた日。いつもの弁当をいつもの家で食べる、ちょっと特別でたのしい日。
今まさに3人で「い」を言おうとした瞬間に惹かれて1枚だけ、とカメラ持ってきて覗いてシャッター押してカメラ置いてごめんと言って、せーの、「いーたーだーきーます」。
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4. ご覧いただいている写真とキャプションは、ぼくがInstagramに載せたものの一部です。 ここでは、ぼくがどのように考えて写真を撮っているかについて書きたいと思います。ぼくには写真の技術や知識は大してなく、写真についてもともと何か考えを持っていたわけでもありません。ここ1年半くらい普通の生活を撮る中で気づいたこと、考えるようになったことばかりです。
まずぼくは、いつもの生活風景にある美しさに気づいて撮りたい、そして、「生きている」自分たちを記録したいと思っています。
特に『妻のごはん』が好きで今そればかり撮っているわけですが、写真のために何かをセッティングしたり、動きを止めてもらったり、タイミングを合わせてもらったりということをしていません。ただただ、いつもどおりに作っているところにカメラを向けています。 正面から、斜めから、真横から、または肩越しから。 家族のために料理をしてくれる姿はどこからどう見てもいいものですが、その中でも特に美しい瞬間を撮りたいと思うとき、何を意識してシャッターボタンを押しているのか。 整理してみると、以下の4点かなと思いました。
(1)妻が特に集中した瞬間
(2)日の丸、繰り返し、光と影
(3)湯気
(4)妻の姿が「写らない」瞬間
(1)妻が特に集中した瞬間包丁で野菜を切る瞬間や、器に料理を盛る瞬間などが好きで、たくさん撮っています。妻いわく、食材の大きさや形、盛り方しだいで食事がぐっとおいしくなるとのこと。そんな気持ちで特に集中力を高める瞬間は、指先までふさわしい力がこもっているようで、いい手をしてるなぁと感じます。その手と食材(料理)が一体となったような瞬間に美しさを感じ、シャッターボタンを押しています。
平日ぼくは朝早く夜遅いことも多いけど、限られた時間で妻と「れんこんって意外とめちゃおいしいよな」とか話して盛り上がっている。
世界でそれを自分しか見ることができない場所や角度や時間に、みんないつも立っている。
ときどきぶつかりそうになるのはわるいなと思っているけど、でもやっぱり明日も妻のいる台所をちらちら見て、うろう ろするつもりだ。
(2)日の丸、繰り返し、光と影 妻が料理をしている台所や食卓をうろうろ、ちらちら見ていると、妻の行動にともなって、かわいい模様や整った模様がしばしば現れることに気づきます。りんごがポツンと置いてあったり、野菜に等間隔で切れ目が入っていたり、光と影の分かれ目が出ていたり。そんな単純な、(きれいやな) (なんかかわいいな)と感じる瞬間が好きで、シャッターボタンを押しています。 そういえば、そのとき一つ意識していることが「構図」です。対象物がなるべく左右の真ん中に来て、傾きも少ないように撮ることが多いです。ちょっとずれてしまったら後でトリミングなどして直すことも多いです。 そう整えることで、そこに流れている時間の平穏さや、その光景をぼくが大切に受け止めたということを、表現したいのだと思います
十年前、すでに結婚してた妻とぼくと友人夫婦で『夢』について語り合ったことがあり、ほとんど聞き役に回っていた妻が最後に「私の夢は、なんていうか、"暮らし"やねん」と言ったことを、今でもときどき思い出している。
たぶん誰にも気づかれてなかったと思いますが、実はぼく、このラーメンが好きです。
日々の暮らしのまん中に食卓があって、今日の食卓のまん中におにぎりがある。
(3)湯気湯気は、ぼくが写真を撮る中でもっとも重要な対象です。 と言っても、最初からそんなふうに思っていたわけではありません。最初は単純に(きれいやな)と思って撮っていただけでしたが、撮った湯気を何枚も見ていると、なんとも言えないせつなさとか、尊さみたいなものまで感じている自分に気づきました。その理由を日々考え、少しずつわかってきたのは、ぼくは湯気に『今』とか『時間』、そして『命』とかを重ね合わせているということです。生じた湯気は一瞬たりともそこにとどまらず、形を変えながら上って消える。消えながら生じ、生じながら消える。それはまるで『今』のように。消えたことを惜しんでも、また新たに生じるそれに希望を持つことができる。『時間』のように。そしていつかは熱が冷めてとまる。『命』のように。本来目で見ることができないものを、湯気の姿と性質が表現している。自分で撮った写真を見てそう思ったとき、世の中の”止まらない法則”みたいなものに触れた気がしました。それは諦めであり希望であり、生きている今を、日々を、人生を、大事に自由に生きていきたいなぁと強く思うようになりました。
「今」は消えていくと同時に、「新しい今」が立ちのぼる。いつかはそれもとまる。そのことを強く感じていればいるほど、湯気や季節や家族や友達とかがうつくしいのかなと、1年前は知らなかった人の写真と言葉を見て思った。
〈立ちのぼる湯気〉は〈消えていく湯気〉でもあって、生きていることは終わっていくことでもあると思うから、やっぱり写真、撮りたいなぁと思う。
何年後や何十年後かにも動画みたいに立ちのぼって、その日のことみたいな、湯気や家族の写真を撮れたらなぁって思う。
(4)妻の姿が「写らない」瞬間妻の写真をたくさん撮っています。Instagramに載せていない写真ももちろんいっぱいあって、娘としゃべってるところとか、駅へ歩く姿とか、料理の味見をしている顔とか。そんな中で、「一番”残したい”のはどんな写真か」ともし訊かれたとしたら。ぼくは、「妻の姿が『写らない』瞬間を撮った写真」と答えたいです。それは例えば、まな板の上でりんごを切って、または鍋を火にかけて、ほんのちょっとだけ台所を離れたような瞬間です。途中のまま妻が一瞬だけいなくなった台所を撮った写真を見ると、不思議な感動を覚えます。それは、妻が「次の瞬間そこに現れる」という気配だけで満たされた光景だからだと思います。
人は必ず歳をとり、いつかいなくなる。写真に写った顔はいつか、「○歳だったころの○○さん」「生きていたときの○○さん」という完全な過去として懐かしむ対象となる。それも写真のすばらしい役割です。一方、姿ではなく、日付でもなく、「次の瞬間その人がそこに現れる気配」を写真にもし保存することができたら。その写真から、その人の存在が立ちのぼり続けるのではないか。
今、ありがたいことに妻もぼくも元気に過ごしている。このまま一緒に長生きできたらと思うけど、いつかはどちらかが先にいなくなる。男女の平均寿命で考えたらぼくかもしれない。でももし、ぼくより先に妻がいなくなるときがきても。写真を見て「生きている」と感じたい。もちろん、物理的にそうじゃないことはそのときわかっている。それを受け入れたうえで「生きている」などと感じるなんてちょっとおかしいということもわかっている。でも、いま妻といる日々で感じている楽しさとか安らぎとかが、少しでも同じように実感できないか。妻がすぐそのへんに現れるような感覚に触れられて、懐かしむ以上に、心強く思えはしないか。
そして、妻もぼくもいなくなったずっとあと、誰かの前で、ぼくらの存在が立ちのぼりはしないか。
人の命は物理的にはいつか必ず消えてしまうけど、気配は、写真をとおしていつまでも発することができるのではないか。 写真というものにそんな願いを込めて、撮り続けられたらと思っています。
そんなことをわざわざ願うのは、もしぼくより先に妻がいなくなったらと想像することが、ぼくはたぶん、ただもとてつもなくさみしいからです。
芸術も仕事も朝ごはんも、何かをつくろうとする人や場所の"気配"が好き。
その人がそこに現れる気配とか確信を写真に残せたら50年後や100年後も、その人の存在は立ちのぼり続けるんじゃないか。最近そのことばかり考えている。
妻の姿は写ってないけど、妻を撮った写真、なんだろうと思う。
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5.ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。寝ぼけた頭で寝室を出て、手すりにつかまって、2階から1階へ降りる階段の音が響く。妻に聞かれたら何か言われるかもしれない音だが、朝6時、妻はまだ娘とよく寝ている。寝ぼけた頭ではこれくらいしっかり降りないと途中で踏み外してしまいそうになる。こないだは下から3段目まで来て左足を上げた瞬間、次に下ろす足が左で合ってるのか右が正しいのか急に頭が真っ白になり、足が止まったまま身体の勢いを止められずにあーーーーっ!と下まで跳んだ。やんちゃな小学生みたいに跳んだ。
平日の朝はいつもどおり、一人で食パンを食べながらInstagramを開く。昨夜遅くにふとんの中から投稿した写真をもう見てくれてる人がいて嬉しい。食べ終わったらスーツに着替えて歯を磨く。磨きながらまたInstagramを開く。いつもこの時間に「いいね!」をくれる人がいる。Instagramの向こうには、その人なりの思いで見てくれるさまざまな「ひとりの人」がいるのだと思う。さらっと見てくれる人、じっくり見てくれる人。その人を「何人もの人」と捉えること以上に、さまざまな「ひとりの人」のほうに興味がある。この人は、またはこの人は、どんな気持ちで見てくれているのだろう。顔も知らなくても、お互い、生活や気持ちの小さな一部を作り合っている関係なのだと思う。
きのうの妻のごはんがくれた元気で、今日の妻のごはんをしっかり食べる。
日々だしを取る妻を撮るぼくの日々。
車に乗って職場に向かう。信号待ちで、助手席に置いたiPhoneのInstagramがもう気になっている。中毒だ。でも、運転中に見るわけはいかない。もし事故でも起こして車から煙が出るようなことになったら、「いいね!」をもらっている場合でも、「あたたかい時間が流れていますね☆」とかコメントもらってる場合でもなくなるからだ。良くないし、あたたかすぎるからだ。
そんなこんなで職場に着き、写真とは全く関係ない仕事に励み、夜に帰ってくる。ちょうど娘が寝る時間。寝室のある2階から、絵本を読む妻の声が聞こえてくる。
テーブルの上に用意してくれためちゃおいしい夕食を食べながら、カメラの再生ボタンを押す。ぼくのカメラがこのテーブルにあるということは・・・やっぱり、その日妻が撮った写真が出てきた。右下の撮影時刻とともに写真を見る。クレヨンで何かを描いている朝の娘。カエルのぬいぐるみ持って面白い顔で踊る夕方の娘。ほんの1時間前にこの食卓でさくらんぼを食べてた娘。そして、今あの壁に貼ってあるバレリーナの絵。おもちゃ箱からちらっと覗いてるやわらかい黄緑。さくらんぼの柄と種は・・・妻がちゃんと捨てたんだろう。
夕食を食べ終わるころ、娘を寝かしつけた妻が降りてきて、コーヒーを入れてくれる。妻はピアノレッスンの仕事と子育てをがんばってくれていて、夜も朝もなるべくしっかり休んでてほしいと伝えてあるけれど、一緒にお茶できる時間を作ってくれて、やっぱりほっとする。
お茶してお風呂を済ませてふとんに入り、Instagramを開く。休日に撮って『Lightroom』で編集して、iPhoneに取り込んである写真を見る。仰向けで腕を伸ばしてiPhoneを掲げながら、キャプションを考える。写真を見つめて考え続けていると眠さで意識が飛び、iPhoneが眼球の上に落下する。iPhoneってめちゃくちゃ痛い。一気に目が覚めて、仰向けで腕を伸ばしてiPhoneを掲げながら、キャプションを考える。写真を見つめて考え続けていると眠さで意識が飛び、iPhoneが眼球の上に落下する。iPhoneってめちゃくちゃ痛い。
わずかに目が覚めて、また写真を見つめる。隣で、妻と娘が寝息を立てている。薄れる意識で投稿して眠る。
この先何歳まで生きられたにしても、妻と出会う前に決まってた寿命より10歳は長生きなのだろうと、妻のおでんを食べながら思った。
娘がいつか自分のスマホとかでぼくのインスタグラムをこっそり開いてだーっと見て、この投稿にたどり着くこともあるだろう。娘よ、今日はたった3歳の、もう3歳の、誕生日おめでとう。
できればぼくはぼくの最後のさいごまで、妻のごはんを食べながら生きたい。
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6.トントントントントントントントン。夫「おはようー」妻「おはよ」夫「よく寝たわぁ。おっトマト!」妻「庭で採れたてやで」夫「かわいいなぁ」パシャッ妻「あっハーブ忘れてた、ちょっと採ってくる」夫「うん」パシャッ
夫「いい匂いしてきた」妻「野菜の煮込みやで」 夫「おー」妻「昨日いい野菜いっぱい買えてん」パシャッ妻「仕事も忙しいし元気つくように」夫「つくわぁ」パシャッパシャッピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ妻「洗濯機止まったな、干してもらっていい?」夫「あ・・・うん」
夫「洗濯物多いな今日!」妻「多い?」夫「多くない?」妻「んー」夫「ハンガー」トントントン。夫「ハンガーが1個足りひん」トントントントン。夫「あートマト切ってる!」パシャッパシャッ
夫「物干しの洗濯バサミが足りひん」妻「足りひん?」夫「ぼくのパンツだけ干せへん、行き場がない」妻「あー」夫「ぼくのパンツだけ干された形?」トントントントン。夫「あーズッキーニ切ってる!」パシャッパシャッ娘「おかーさーーん!」妻「起きた」 夫「起きた」娘「おかーーーさーーーん!」妻「火かけてるし、行ってきてもらっていい?」夫「あ・・・うん」パシャッ
妻「ごはんできるでー2人、降りてきてやーー」夫「はーい」ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。娘「おはよー」妻「おはよう。2人の遊んでる声が下までよく聞こえてたわ」夫「ふとんに隠れてめくる遊びで盛り上がって・・あっ、ちょ、湯気!」パシャッパシャッパシャッ 夫「うーわおいしそう!」パシャッ妻「はい座って、食べよー」パシャッ娘「みんなでいただきますしよ」妻「そうしよ」夫「しよしよ、はい、せーの」 「いーたーだーきーます!」パシャッ
そんなこんなで、いつもの休日が始まった。
たぶん人生でもいちばん大事なごはんの一つに、ぼさっとした頭で、いつもの休日の朝出会っている。
「ミートソース作る」と妻が買ってきた、ふぞろいのトマト。18年前のあの日妻と出会わなかったら出会わなかったトマト。
ぼくも妻も娘もまだこの年齢で元気に一緒に暮らしている今の日々は、生涯でもいちばん最高のときなのだろう、と本気で思っている。
何度も何度も妻の写真を載せて思いを添えて、ふと恥ずかしくなるときがあるけど、今さらもう遅いので、このまま続けようと思っている。
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AKIPIN
2017年に始めたInstagramをベースに、「妻のごはん」を中心とした家族の日々を喜びあふれる目線で記録する。「妻」が丁寧につくる暮らしの瞬間を深い色味で映し、"生きる思い"を愛情と遊び心ある言葉で追究するInstagramは日本だけでなく海外からも閲覧され、2018年8月時点のフォロワー数は約2.9万人に。特に中国では多数のウェブサイトで紹介され取材を受けるなど、認知度が高まっている。
Instagram:@akipinnote